漱石の‘虞美人草’に運命についての記述がある、と村上春樹が‘海辺のカフカ’の中で述べている。‘虞美人草’自体、漱石にしては大した作品とは思わないので、改めて確認はしていない。‘運命は神が考えるもの’という主旨らしい。‘考える’だけではつまらないので、‘運命’とは神が考え、人に対する配布権を専権事項として持っているものという意味に解釈したい。また、一括りに‘運命’と言っているが、具体的な詳細は述べられていない。まず、運命を‘幸運’‘不運’‘どちらでもない’等と(馬鹿そうなアンケートの設問のように)分けていないし、運命の配布方法、配布結果の公平性、等々にも触れていないから、逆に、‘運命’を通して神と人の関係性が見えてくる。
個人には誕生から死までの間に無数の‘運命’がぎっちり連なって降りかかってくる。つまり人生とは‘運命’の鎖のようなものである。幸運も不運も個人に無差別、無秩序に振り分けられてくることを考えると、神には幸・不幸の基準が無い(或いは人間が感じる定義とは異なっている)ので、人に対する‘運命’の公正・公平な配布という観念も無い。また、‘運命’の配布は、例えて言えば‘豆まき’に似ている。節分に寺社の高い廊下から群衆に向かって袋入りの豆を撒く行事では、豆を撒く人は豆や撒き方の次第や詳細を正確には知らないし、誰がいくつ拾うかも分からない(‘なるべく公平に行き渡れば良いが’くらいのことは考えるかもしれないが)。この場合の豆撒く人が神で、豆拾う人が個人、そして撒かれる豆を‘運命’と考えると分かりやすい。神は全ての人に平等に幸運のみをもたらしてはくれない。神はヒトの生態研究者、ヒト社会の観察者なのである。
ところで、ヘッポコ運命論からは他にも気付くことがある。それは‘運命’が人間の前に立ち現れる時には必ず人(または人の様なもの)の皮を被って出てくるということである。良い例としては西洋の金言で、‘幸福の女神には前髪だけで後ろ髪は無い’と云うものがある。一度捕まえるチャンスを逃すと後で手に入れられない、という意味である。人と付き合う場合は相手の本性(つまり、どんな運命を自分にもたらす人か)を正確に見極められる見識と知識、洞察力を養っておく必要がある。