高校に入学した頃から、何故か急に世間的つまり一般に‘カッコいい事’や‘スカッとした話’に惹かれるようになり、大人たちが‘粋だねぇ’などと言っている場合と結び付けて「いき」について考えるようになった。当時‘半大人’の男は、典型的な勧善懲悪の西部劇や高倉健のやくざ映画に最も‘カッコいい’仕種や台詞を見出し、こういう事を‘粋’と言うのだと解釈していた。(「とめてくれるなおっかさん背中の銀杏が泣いている…」のコピーは泣きたくなるほどカッコ良かった)つまり、‘粋’というより‘意気’の方の意味にも価値を見出していたのである。苦しめられている人や、困っている人を見て、さりげなく(恩に着せることを恥と考えるので)助け、援けて消えていくことが‘カッコいい’のである。(もっとも、自分自身もかなり‘やせ我慢’をしているはずなのだが)
大学入学後、思い立って九鬼周造の‘「いき」の構造’を読んでみたが私が考えていた‘いき’の定義とはほとんど接点のないことだけは理解できた。(当然と言えば当然である。哲学界の泰斗と無学無教養の凡学生とに理論上の接点などあろうはずが無い)ただ、実生活では大学で新たに知り合った友達の中に未熟ながら思想や哲学好きの理屈っぽい連中がいたので‘ああだ、こうだと’駄弁を弄しつつ、私の「いき」の定義付けを中心に議論すること自体が楽しみになっていた。
我々が最も悩んだのは「いき」と「野暮」「気障」の違いやそれらの境界の問題だったが、大学4年間に亘る(暇だったなぁ)議論の末に見つけた定義は次のようなものであった。つまり、ある行為や行動を見て多くの人々が自分もやってみたいものと憧れるが、如何せん、その能力が無いので諦めてしまうことを、することを「いき」、自分も同じ行為、行動を行う能力はあるが、さすがに馬鹿馬鹿しく‘カッコ悪い’のであえてしないことを、することを「野暮」「気障」と定義するというものであったが、これには、やっと仲間全員が同意してくれた。
ところで、近年、日本のみならず世界中で「いき」な行動を見ることも、聞くことも無くなったように思う。‘自国第一主義’‘Post Truth’等々が「いき」の対極にある思想である。